なぜ罰するのか
同じ万引きでも刑の重さが変わるのはなぜか——応報刑主義・一般予防主義・特別予防主義の3つの答えを具体例で決着まで見せ、決定論→主観主義/非決定論→客観主義の対立につなぎ、主観主義が退いた理由を自由保障の言葉で説明する回。
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第1章 刑法の基礎 ②/動画の内容を見返し用にまとめたものです(動画には含みません)。
同じ万引きなのに、刑の重さは同じでいいのか
はい、聞かせてください。行為の外形も、被害額も、ほぼ同じなんですね。実は、答えは「なぜ罰するのか」という理由づけ次第で変わります。少し進んだところで、はっきりさせます。

犯罪という行為を、そもそも国家がなぜ罰してよいのか。この問いへの答え方によって、犯罪の何を見るべきかが変わります。それが、①犯罪の本質という論点です。そこから、②刑罰の正当化根拠、③学派の対立、の順で見ていきましょう。
犯罪の本質①:決定論と主観主義
まず、犯罪の本質——犯罪の”何が悪いのか”を考える出発点は、人間観です。人はどこまで自分の行動を自分で選べるのか、という見方です。一方の立場が、決定論です。人の行動は、生まれ持った素質と、置かれた環境で、すべて事前に決まっている、という考え方です。そのとおりです。たとえば、貧困や虐待の中で育ち、盗みをせざるを得ない環境にいた人は、そうでない人より、犯罪に至る可能性が最初から高い、と考えます。この考え方をとると、犯罪者と非犯罪者は、そもそも別の種類の人間だ、という話になります。犯罪者は、社会にとって危険な性質を、もともと抱えている人だ、という見方です。そのとおりです。評価の的が、その人の内面の社会的な危険性に向く——これが主観主義です。

実際に何をしたかより、その人がどれだけ危険な性質を持っているか、が重要になります。この見方が、次に見る立場と、はっきり対比されます。
犯罪の本質②:非決定論と客観主義
もう一方の立場が、非決定論です。人は、自分の意思で自由に行動を選べる、という考え方です。そのとおりです。たとえば、同じように貧困の中にいても、盗まないという選択をした人は、大勢います。この考え方をとると、犯罪者と非犯罪者を、そもそも別種の人間として区別しません。そのとおりです。犯罪者も一般人も、危険性において変わらない。だとすれば、見るべきは何でしょうか。実際にどんな行為をして、どんな結果を生んだか——この外部の行為および結果に評価の的が向く——これが客観主義です。

では、2つを並べて、一気に整理しましょう。

決定論なら主観主義、非決定論なら客観主義、という組み合わせが、ここでの基本です。では次に、この人間観が、刑罰そのものの理由づけにどうつながるかを見ていきましょう。
刑罰の正当化根拠①:応報刑主義
ここからは、「なぜ刑罰を科してよいのか」という、もう一つの問いに移ります。はい、別の問いです。刑罰の正当化根拠——刑罰理論と呼びます。大きく3つの考え方があります。まず1つ目、応報刑主義からいきましょう。刑罰とは、悪事を働いたことへの当然の報いだ、という考え方です。この考え方には、大事な縛りが1つ付いてきます。科す刑は、起きたことの重さに見合う範囲までしか許されない、という縛りです。たとえば、軽い万引きに、死刑を科したらどうでしょう。そのとおりです。応報刑主義では、犯した罪の重さに見合った刑でなければならない、と考えます。

刑の重さの限界を考えるとき、いつも顔を出す考え方です。では、次に残り2つの考え方を見ていきましょう。
刑罰の正当化根拠②:一般予防主義と特別予防主義
応報刑主義とは、発想がまったく違う2つの考え方があります。どちらも、刑罰の目的を、これから先の犯罪を防ぐことに置きます。1つ目が、一般予防主義です。そのとおりです。刑罰を科すことを社会に示して、一般の人々が同じ罪を犯さないよう、威嚇する考え方です。交通違反の取り締まりが強化されたと報じられると、多くの人が一時的に運転に気をつけますよね。はい、それが一般予防のはたらきです。2つ目が、特別予防主義です。そのとおりです。犯人その人自身が、二度と同じ罪を犯さないよう、教育や更生を通じて防ぐ考え方です。たとえば、言い渡した刑の執行を一定期間待つ、執行猶予という制度があります。その期間に、更生プログラムを受けさせるのは、特別予防の発想です。これが、刑罰の正当化根拠をめぐる3つの考え方です。

いい質問です。実は、深くつながっています。3つの刑罰理論は、それぞれ相性のいい相手が決まっています。再犯を防ぐ立場は内面を見る側と、報いと威嚇の立場は行為を見る側と、対になるんです。特別予防主義は、その人がまた罪を犯すかどうか——つまり、すでに行った行為だけからは分かりません。性格や、生活環境や、反省の度合い——その人の側の事情を見るしかないんです。だから、特別予防主義は、その人の内面の危険性を、どうしても見ることになります。逆に、応報刑主義と一般予防主義は、実際に生じた行為と結果を出発点にします。そのとおりです。ここで一つだけ、触れておきたいことがあります。“何を悪と見るか”には、実はもう一つ、別の対立軸があります。結果無価値論と行為無価値論という対立です。いいえ、これは別物です。本拠地で、じっくり扱いますので、今は名前だけ、頭の片隅に置いておいてください。
結論が変わる:Aさん・Bさんの答え
では、冒頭のAさんとBさんに戻りましょう。まず、応報刑主義で考えてみます。そのとおりです。盗んだ金額や、行為の悪質さがほぼ同じなら、AさんもBさんも、ほぼ同じ重さの刑になりやすいんです。本質的な考慮要素ではありません。行為者の事情は、脇に置かれます。特別予防主義は、「この人が将来また盗むか」で刑の重さを決めます。執行猶予など、軽い処分になりやすいです。長期の隔離や、処遇が必要だ、という判断になりやすいです。そのとおりです。最後に、一般予防主義です。たとえば、同種の万引きが社会問題化している時期なら、AさんもBさんも、個々の事情に関わらず、重めの刑にする、という判断もありえます。そのとおりです。「なぜ罰するか」という理由づけの違いが、同じ行為・同じ被害額でも、量刑の理由と結論を変えるんです。

ここが、「なぜ罰するか」を学ぶ実益です。
学派の対照表①:古典学派と近代学派
ここまでで、犯罪の本質と、刑罰の正当化根拠、2つの対立を見てきました。実は、この2つの組み合わせには、それぞれ名前が付いています。特別予防主義と主観主義が結びつく立場を、近代学派——または新派と呼びます。一方、応報刑主義・一般予防主義と客観主義が結びつく立場を、古典学派——または旧派と呼びます。そのとおりです。整理すると、こうなります。

そのとおりです。この線は、実はまだ続きがあります。この対立は、責任という論点にも、姿を変えて出てきます。そこは、対照表を仕上げるところで、もう一度触れます。
客観主義と主観主義で結論が変わる:未遂の例
この対立、実は昔の話では終わりません。もう一つ、別の事例で確かめてみましょう。Cさんが、他社のサーバーから、顧客の決済情報を盗もうとしました。ところが、その脆弱性は前日に、別の理由で修正されていました。そのとおりです。客観的には、情報が漏れる危険は一切ありませんでした。その場合は、現実に情報が漏れる危険があった以上、実行に着手して遂げなかった場合——未遂として、どちらの立場でも処罰されます。ここでは、争いになりません。ここで、客観主義と主観主義で、答えが分かれます。まず客観主義です。実際に情報を盗める可能性が、最初からなかった以上、前回出てきた法益——刑法が守ろうとする利益ですが、その法益への現実の危険はなかった、という点を重視します。そもそも結果が起こりえない行為だとして処罰から外す、不能犯という扱いもありえます。はい、専用の回で扱います。Cさんが「盗めるはずだ」と信じて実行に踏み切った、その内面の危険性は、現実に存在していました。そのとおりです。処罰の範囲を、広げる方向に働きます。

同じ行為でも、罰せられるかどうかが変わってしまうんです。犯罪の実行に着手して遂げなかった場合の扱いは、43条に定めがあります。中身は、未遂を学ぶ回で本格的に扱います。
なぜ主観主義が退いたのか:自由保障との衝突
今の例、主観主義を徹底すると、どこまで処罰が広がるでしょうか。そのとおりです。突き詰めると、「まだ何もしていないが、危険な人だ」という段階まで、処罰の対象になりかねません。はい、ここで、前回お話しした綱引きを思い出してください。そのとおりです。「危険な人だから罰する」という理由づけは、内面の危険性だけを根拠にしています。行為という、外から見える出口がなければ、どこまでも輪を広げられてしまいます。あらかじめ何が犯罪かを、条文で示しておく——これを罪刑法定主義と呼びます。そのとおりです。その保障が、内面基準では成り立たなくなります。行為と結果という、外から見える手がかりを重視する客観主義の方が、自由保障としっかり両立できる——これが、主観主義が退いた理由です。

そのとおりです。ここまでの流れを踏まえて、通説の到達点を見ましょう。
通説の到達点:相対的意思自由論
決定論と非決定論、どちらか一方に決め切るのは、実は難しい話です。完全な自由意思を認めると、素質や環境の影響を無視することになります。逆に、完全に決定されているとすると、誰も自分の行動に責任を負えないことになってしまいます。そこで通説は、両方の折衷を取ります。人は、素質や環境の影響を受けながらも、その範囲内で、自分の意思で行動を選べる、という考え方です。そのとおりです。この折衷的な立場を、相対的意思自由論と呼びます。環境の影響を受けていたことは、確かに認めます。でも、その環境の中でも、「盗まない」という選択の幅は残っていた——そう見るんです。そのとおりです。両極端の、どちらでもない着地点です。そして、この立場からは、犯罪の本質は客観主義が妥当だ、という結論になります。そのとおりです。刑罰の理由づけについても、通説は1つに決め切りません。応報刑主義を基礎にしながら、一般予防的な配慮や、特別予防的な配慮も、あわせて取り入れる立場を取ります。予防だけを理由にすると、刑の重さに上限がなくなるからです。社会への見せしめを徹底すれば、軽い罪でもいくらでも重くできます。その人の危険性が消えるまで、と考えれば、いつまでも閉じ込めておけます。そのとおりです。だから応報を土台に置いたうえで、予防の配慮を乗せる形になります。そのとおりです。均衡という縛りを土台にしつつ、社会への抑止効果や、犯人自身の更生も考慮する——これが、通説の到達点です。

曖昧というより、両極端の弱点を、お互いに補い合う立場です。
学派の対照表②:人間観から処罰対象までの1本の線
では、今日見てきた対立を、1枚の対照表にまとめましょう。出発点は、人間観でした。近代学派は決定論、古典学派は非決定論です。近代学派は主観主義、古典学派は客観主義でした。

人間観の違いは、実は責任の捉え方にも、姿を変えて表れます。近代学派は、社会的責任論という立場を取ります。古典学派は、道義的責任論という立場を取ります。はい、責任を学ぶ回で本格的に扱います。この人間観の違いは、最後に、処罰の対象そのものにも表れます。近代学派は、行為者の危険性という、人そのものに向きます。古典学派は、行為そのものに向きます。そのとおりです。ここまでをまとめると、こうなります。

直接ではありませんが、責任をどう捉えるかという議論の中で、この41条が出てきます。中身は、責任の回で扱います。
この対立の行き先――まとめ
今日見てきた学派の対立は、決して終わった論争ではありません。まず、“何を悪と見るか”のもう一つの対立軸——行為の結果に着目する結果無価値論と、規範への違反に着目する行為無価値論の対立が、後ほど出てきます。そこで、正しい対応関係とあわせて、本格的に扱います。未遂をどこから処罰するかという技術的な基準も、専用の回で扱います。不能犯として、専用の回で扱います。応報刑主義を突き詰めると、死刑の是非という論点にもぶつかりますが、憲法との関係は、また別の回です。人間観がどう責任の捉え方につながるかは、責任を学ぶ回で本格的に扱います。


犯罪の本質は、決定論なら主観主義、非決定論なら客観主義でした。刑罰の正当化根拠は、応報刑主義、一般予防主義、特別予防主義の3つ。そのとおりです。そして、主観主義が退いた理由は、内面の危険性だけを根拠にすると、自由保障の歯止めが効かなくなるからでした。